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つじくにおがくしゅういんだいがくしりょうかんのげんかんまえにて
平成4年(1992)
史料館へ自ら資料を運んでいた頃、史料館正面玄関の階段に腰かけて。辻は明治42年築の史料館と傍らに咲く八重桜を愛でていた。
つじくにお(じゅうきゅうさい)きゅうせいまつもとこうとうがっこうりょうさい
昭和19年(1944)
寮劇「月光と幻想」で台本を執筆、役者として舞台にも立った。
つじくにおしょうわじゅうきゅうねんからへいせいじゅうねんまでのにっき
昭和19年(1944)~平成10年(1999)
昭和19年から晩年まで書かれた日記「JOUNAL」は78冊。うち8冊が翻刻・出版されている。
とどろきみたけさんこふんしゅつど てつぞく
5世紀
昭和25年(1950)学習院高等科史学部発掘により5世紀中葉頃の短甲2領、鉄刀、鉄鏃、胡ろく金具等が出土。
とどろきみたけさんこふんしゅつど さんかくいたびょうどめたんこう
5世紀
昭和25年(1950)学習院高等科史学部発掘により5世紀中葉頃の短甲2領、鉄刀、鉄鏃、胡籙金具等が出土。
つじくにお(じゅうきゅうさい)きゅうせいまつもとこうとうがっこうしせいりょうにて
昭和19年(1944)
いがぐり頭と洋服に縫いつけられた名札から戦時下であることがわかる。入学して最初の寮歌祭の打ち上げであろうか。
かるいざわべっそうでくつろぐつじくにお
昭和47年(1972)頃
辻の創作の場の一つである軽井沢の別荘は、友人・磯崎新の設計。書斎や居間から「浅間山にのぞむ森に埋まった谷間」をのぞむ場所に建つ。磯崎はこの建物を「軽井沢バラック・アクロポリス」と呼んだ。平成11年(1999)7月、辻が逝去したのも軽井沢に滞在中のことである。
つじくにおぱりにて
昭和47年(1972)
この年、47歳の辻は『背教者ユリアヌス』で毎日芸術賞を受賞した。
きたもりおとつじくにお
昭和50年代
旧制松本高校以来の友人のひとり・作家の北杜夫とは、文学上の刺激を受けあう仲間でもあった。両者の往復書簡は『若き日の友情―辻邦生・北杜夫往復書簡』に紹介されている。
つじくにおしょぞうせいぼしぞう
年代不詳
『樹の声・海の声』の主人公・逗子咲耶のモデルとなったマリア・ユリ・ホエツカ夫人(林百合子)から辻に贈られた母子像。ポーランド貴族であったホエツカ夫人が故国を脱出する際も大事に持ち歩いていたという。
つじくにおのあいしたくまちゃん
年代不詳
辻家には3匹の‶クマちゃん”がいる。この‶クマちゃん”を愛車の助手席に座らせて軽井沢の別荘に行ったことがエッセイにも書かれている。
つじくにおこうきゅうせいこうからだいがくじだいのにっき
昭和19年(1944)~昭和27年(1952)
書くことによって、自らの考えを明晰にしていく辻の習慣は、高校時代から逝去する直前まで続いていた。昭和19年から28年まで高校大学時代に書かれた日記は20冊に及ぶ。
しらかば おおぎまちきんかず
明治43年(1910)4月
つじくにおそうさくめも
昭和30年~50年代
創作のアイデアなどが記されたメモ類。
つじくにおはるのたいかんじひつげんこうかわそうぼん
昭和52年(1977)頃
イタリア・フィレンツェを舞台にした『春の戴冠』は昭和47年より連載が開始、昭和52年(1977)に単行本化された。この革装本は自筆原稿を装幀したもので、詩人で装幀家の笠原三津子の装幀。
つじくにおぱりだいさんだいがくでのこうぎろく
昭和59年(1984)
パリ第3大学(コレージュ・ド・フランス)で「日本文学論(隠者の文学)」を講義した際のフランス語のレジュメ、日本語のレジュメも用意して講義に臨んだ。
つじくにおさいぎょうかでんじひつげんこうかわそうぼん、しかぼん、げんていばん
平成7年(1995)~平成11年(1999)
平成7年(1995)に第31回谷崎潤一郎賞を受賞した『西行花伝』の自筆原稿革装本は詩人で装幀家の笠原三津子がてがけたもの。私家本は版画家・柄澤齊の装幀で、限定5部発行。
ひとはひと われはわれなり とにかくに われいくみちを われはいくなり
昭和9年(1934)
西田幾多郎64歳の元旦に詠んだ歌。己の道をひたすらに追い求めた強い信念が伝わる。京都哲学の道の歌碑原本。寸心は西田の居士号。
にしだきたろうとみききよし
昭和時代
鎌倉にある西田幾多郎邸の縁側に座る西田幾多郎と三木清(哲学者)。本邸宅は現在学習院西田幾多郎博士記念館(寸心荘)となっている。
つじくにお さほこ
昭和28年(1953)頃
結婚して間もない頃、国分寺の新居でくつろぐ。背後にあるのは哲学者ヴォルテールの石膏像。
しめきりまえしめきりご
昭和50年代か
辻邦生はマンガやスケッチの名人。佐保子も影響を受けて、互いに描きあっては交換していた。
つじくにお こくぶんじのいえ(もけい)
平成25年(2013)辻愛也(よしや)作成
建築を専攻した辻邦生の弟が設計。玄関がなく窓から出入りしたと言う。昭和28年(1953)
~ 同46年(1971)まで、この家で創作活動を続けた。
ヴェトナムのはなよめかぶりものをしたやお・ちん・がんぞく ふじんしゃしんかんぱん
20 世紀
歴史地理標本室収蔵ガラス乾板写真。現存するガラス乾板写真には仏領インドシナ(現ベトナム社会主義共和国など)に関するものが多く含まれる。
やましなのみやよしまろおう
明治43年(1910)
山階宮芳麿王は山階宮菊麿王第3王子。大正9年(1920)臣籍降下し、山階芳麿となる。山階鳥類研究所を創設したことで知られる。
かつらぎしげまろ・としこけっこんしきしゃしん
昭和5年(1930)
山階宮菊麿王第5王子茂麿王は昭和4年(1929)臣籍降下し葛城茂麿となった。翌5年細川護立長女敏子と結婚。仲人を近衛文麿が務めた。
やまもともりひであて やまもともりしげさしだしはがき
明治38年(1905)
山本盛重は山本権兵衛の甥にあたる。日露戦争時は習志野騎兵第2旅団騎兵第15連隊に所属。戦地より「絵」葉書を送った。のちに学習院馬術教官を務めた。
やましなのみやていたくでへいたいごっこにきょうじるたけひこおう・よしまろおう・やすこじょうおう
明治37年(1904)菊麿王撮影
菊麿王は当時まだ貴重だった写真機で家族などを撮影した。当館は1000枚近くの山階宮家写真を所蔵している。
せいようれきしじゅぎょう(こうとうがっかいちぶだいにねんきゅう)
大正4年(1915)
大正天皇の即位大礼を記念して作成された『大礼奉献学習院写真』より。当時の学習院の様子が詳細に判明する。
いわやさざなみあて くろだこざんねんがじょう
明治44年(1911)
明治44年の年賀状。黒田湖山は巌谷小波が編集をしていた雑誌『少年世界』に参加し、多くの児童文学作品を発表した。
がくしゅういんせいちゅうとうがっかじだいすけっち
明治時代後半~大正時代前半
松室重剛(まつむろしげただ)の教え子たちのスケッチ。志賀直哉(左)、渡辺仁(わたなべじん)(右)など、近代史における重要人物の作例がある。
がくしゅういんせいちゅうとうがっかじだいすけっち
明治時代後半~大正時代前半
松室重剛(まつむろしげただ)の教え子たちのスケッチ。志賀直哉(左)、渡辺仁(わたなべじん)(右)など、近代史における重要人物の作例がある。
にせいごせだほうりゅう しゅんこう
明治42年(1909)頃
本作は、裏面の記載から二世芳柳自ら明治42年5月に学習院に寄贈したものと考えられる。
うらかみぎょくどう くうざんせいじゃくず
江戸時代後期
玉堂は、小画面に生命力あふれる山水画を数多く遺した。その典型例である。
ながしまもうさいが はこだてだいせんそうのず
明治時代初期
学習院第3代院長、大鳥圭介関係史料のうち。馬上で奮戦する人物のひとりが旧幕臣の大鳥である。
みまやつかさしだい
室町時代後期
平安時代後期から戦国時代中期までの院の廐を管理統括した院の御廐の長官(御廐司)と実務を担当した案主(安主)歴代の名簿。
かいたいしんしょ
安永3年(1774)刊
若狭国小浜藩医杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって刊行された、日本初の西洋解剖学書の本格的な翻訳書。内臓諸器官の精密な解剖図が描かれた序図篇1巻と、人体内部を漢文体で解説した解説篇4巻からなる。西洋医学の扉を開き、蘭学興隆に大きな影響を与えた画期的な書物である。
かのくつ
昭和3年(1928)
束帯を着た際に用いる革製漆塗の靴。上部には華やかな蟹牡丹の大和錦をめぐらしている。
かざし
昭和3年(1928)
宮中行事の際、四季の花で冠を飾った古制にならい、大饗の際に作られた銀製の竹梅の造花。
かんむり
昭和3年(1928)
文官が着用した垂纓の冠。和紙の型を芯に漆を塗り重ね、薄い絹織物を貼って作られる。
いかんひとえ(そうにんかんようなつひほう)
昭和3年(1928)
「衣冠束帯」と呼びならわされるが、相互に別物であり、束帯とは腰部の仕立てが異なる。
ちきゅうぎ
昭和11年(1936)
第二次世界大戦前の国境や航空路線が示されている。
ちそうこうぞうもけい
大正時代
「島津製作所」で製作された模型。各部分には「地塁地溝」「餅盤」等、各地層の学術用語
が添付されている。
とうさんさいばよう
唐時代
大正13年(1924)に江藤濤雄(えとうなみお)という古物商より教材として購入したという記録がある。唐時代の貴族の副葬品。
でんおうしんりょうこふんしゅつどみずどりはにわ
古墳時代
宮内省から移管された資料。東京国立博物館所蔵「応神陵(誉田御廟山古墳)出土水鳥埴輪」と類似する。
まーしゃるしょとうほせんもけい
昭和時代
南洋庁から高松宮家に献上され学習院に下賜された模型。マーシャル諸島で製作され、実物の1/10か1/20位のサイズ。
ちょうせんかおくもけい
大正時代
関東大震災での焼失を免れた標本の一つ。朝鮮家屋におけるオンドルの仕組みがわかるようになっている。
たかまつのみやのぶひとしんのうしょようらんどせる
明治44年(1911)
明治18年(1885)、学習院はランドセルを通学鞄として、日本で最初に採用した。
ぎんせいきくもんかんこどりがたぼんぼにえーる
大正~昭和時代
中国の故事「諫鼓鶏」に由来したもの。「諫鼓鶏が鳴く」とは「天下泰平の象徴」であると言われている。
あるみせいとうかもんもっこうがたぼんぼにえーる
三笠宮崇仁親王・高木百合子結婚
昭和16年(1941)11月12日
珍しいアルミ製のボンボニエール。戦時下には皇室であっても、銀を使用することができなかった。
ぎんせいさくらふじもんひおうぎがたぼんぼにえーる
竹田宮恒徳王・三条光子結婚
昭和9年(1934)5月12日
竹田宮家家紋付。竹田宮は北白川宮恒久王が明治39年(1906)に新たに創設した。
ぎんせいきくもんすみれもんえかがみばこがたぼんぼにえーる
貞明皇后大宮御所移転
昭和5年(1930)12月16日
柄鏡を入れる箱を模したもの。皇太后宮職において作り置かれたもの。
ぎんせいきくもんぎっしゃがたぼんぼにえーる
大正~昭和時代
皇室ではあらかじめ作り置いたものを贈る場合もあった。その時に用いられたもの。
ぎんせいいりめかごがたぼんぼにえーる
大正大礼大饗第二日目
大正4年(1915)11月17日
大正天皇の即位大礼は京都御所紫宸殿で挙行された。
ぎんせいおきものだいにうさぎがたぼんぼにえーる
東宮(昭和天皇)・久邇宮良子(くにのみやながこ)女王結婚
大正13年(1924)1月19日
東宮(昭和天皇)・久邇宮良子女王結婚に際し、久邇宮家で開催された祝宴の引き出物。
したんせいきくもんしょうかくもんらでんろっかっけいぼんぼにえーる
東宮(昭和天皇)成婚式
大正13年(1924)5月31日
紫檀地螺鈿は、正倉院宝物にもあるように古様な加飾技法である。
ぎんせいふくようきがたぼんぼにえーる
朝香宮孚彦(たかひこ)王成年式
昭和7年(1932)10月
宮家共通紋。朝香宮孚彦王は皇族として初めて操縦桿かんを握ったといわれる。
たかまつのみやのぶひとしんのうしゅうしゅうまっちらべる
昭和時代
宣仁親王は幼少時からマッチラベルや商標をスクラップしていた。成年後も各地へ訪問した際にマッチ箱を収集、保管していた。その数は3000点を超える。
きっかもんまつかえでまきえぶんだいすずりばこ
きっかもんよしのやままきえりょうしすずりばこ
大正時代
大正天皇から寺内正毅(てらうちまさたけ)に下賜された料紙箱と硯箱のセット。蒔絵や切金で蓋表は桜花、裏側は楓に流水があらわされ、硯箱には桜の花を象った銀製の水滴や筆などの文具が収められている。
たかまつのみやのぶひとしんのうしょようりょこうようぞうげけしょうせっと
昭和時代
象牙部分に高松宮家紋が入る。携帯用化粧セットはヨーロッパにおいて18世紀頃から発達流行し、フランス語では「N?cessaire(必需品)」とよばれる。
たかまつのみやきくこひちゃくようびーずどれす
昭和5年(1930)頃
高松宮両殿下が昭和5年(1930)~6年(1931)の渡欧の際に仕立てられたもの。ビーズにより百合花文様が施されている。
くないだいじんさしだしやまおようぞうあててんちょうせつしゅくえんしょうたいじょう
明治38年(1905)10月26日
11月3日に開催される明治天皇誕生日(天長節)祝宴への招待状。大礼服を着用する旨が記されている。